2016年08月

産業カウンセラー養成講座受講記(8)

ちなみに、最後のカウンセリング実習でカウンセラー役に立候補したのは、私がカウンセラー役を務めたときのクライアント役だった。立場を入れ替えてカウンセリング実習を行うことになったわけである。


で、私にはいくらでも話題があったので、どんな問題を悩み事にしてもよかったのだが、先に、そのカウンセラー役が家族のことを相談事にしたので、私も家族の話をすることにした。既に終わったカウンセリングだったが、私の相談の中で、カウンセラー役が話してくれた悩み事について、参考になるような話ができるかもしれないという考えもあった。しかし、それが大きな間違いで、私は、養成講座を中途で止める決心をすることになるのである。


さて、私が相談したのは母のことだった。母は若い頃から病弱で、長生きできるとは思えなかったが、既に94歳になっていた。さまざまな病気や怪我を抱え、89歳のときには胃癌の手術をしていたが、大正人らしい毅然とした立ち居振る舞いは健在だった。1年ほど前までは書道展に作品を出展し、いつも何かの賞を貰っていたものだった。しかし、わずか1~2ヵ月のうちに、急速に認知症と思しき様子を見せ始めていたのである。


実は、母は、年寄りしかいない老人ホームには入居したくない、植物人間や認知症になってまで生きていたくはないと、口癖のように言っていた。とはいえ、作家の曽野綾子さんのように、高齢者は適当な時期に死ぬ義務があるとまでは考えていなかったようであり、その時のための準備をしていた様子はなかった。そもそも、曽野綾子さんは死ぬ義務を果たせるのかもしれないが、普通の人は、そう容易く細川ガラシャや乃木静子のようにはなれないと思われる。また、完全に呆けてしまったり、植物人間になってしまったりした場合は、自分で自分の始末をつけることはできないことになる。そこで、私は、安楽死や尊厳死を認めるべきであり、同意殺人や自殺幇助は犯罪とすべきではないと考えている。しかし、本音を隠して綺麗事を並べることが常の日本社会では、この手の主張をすると袋叩きにされる。曽野綾子さんの場合もそうだった(「高齢者は適当な時に死ぬ義務がある」http://blog.livedoor.jp/patriotism_nippon/archives/4609967.html))。


とはいえ、所詮は対岸の火事とばかりに批判する人は、それで善人になったつもりになって満足だろうが、現実には、仕事をしていては介護ができないし、介護をしていては仕事ができずに収入を絶たれるから、生活できなくなるという人は巷に溢れている。その結果、家族を殺して刑務所に叩き込まれたり、一家心中したりする人が後を絶たないのが日本の現実であり、そういう人たちにとって、介護は対岸の火事ではなく、地獄の業火なのである。


そこで、私の話に戻るが、私にしても、母が認知症になった場合は、母を殺すか心中するかの選択を迫られることになりかねない。それならば、いっそ本人が望んでいたように、完全に呆ける前に死んでもらいたいという考えが頭を擡げることにもなる。しかし、それは余りにも哀しい現実であり、考えたくはないことである。インターネットで、「友人に電話で『母に死んでもらいたい』と泣きながら話をした」という人の記事を読んだことがあるが、(「介護ができない奴は心中しろ」が政府の方針か?http://blog.livedoor.jp/patriotism_nippon/archives/4652417.html))、私がカウンセリング実習で話そうとしたのは、「母に死んでもらいたい」という悩みではない。今の日本にはそういう人が溢れているのだから、国はしかるべき対策(安楽死や尊厳死を認める、国が介護の責任を負うなどである)を講じるべきだというだけのことである。したがって、カウンセラーは「そのとおりですね」とか「私もそう思います」と言えばそれで済むことで、簡単なカウンセリングのはずだった。ところが、そうはならなかったのである。


(続く)


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産業カウンセラー養成講座受講記(7)

ところが、話はそれで終わらなかった。クライアント役の次は、カウンセラー役を務めなければならないのだが、この時のクライアント役は、自分の家族関係について相談した。もちろん作り話ではなく、本当の話であることは容易に理解できた(個人の問題なので、話の内容には触れない)。私にしても、同様の体験があったから、クライアント役の心情や言葉に現れていない本音も理解できたつもりでいた。だから、話が途切れた時に、それとなく悩みを解決する参考になるような話をしてみた。普段の私なら、参考のために詳細な体験談を話し、あとは本人に考えてもらうという対応をするのだが、カウンセラーの世界では、それではカウンセラー失格になるらしい。そこで、それとなく当たり障りのない助言をしたのだが、クライアント役は、私の話で気持ちが楽になったと言って喜んでくれた。表情も柔和になっていたから、おべんちゃらを言ったわけではなく、本心だったのだろうと思う。


しかし、それがいけなかった。そもそも助言をしたこと自体が悪いことで、カウンセラー失格の評価を受ける。しかも、このとき講師から、「クライアントの話を聴いてどう思ったか?」と訊かれたので、馬鹿正直に、「同じような境遇を体験しているので、クライアントの心情はよく理解できた」と言ってしまった。途端に、鬼の首でも取ったように、「自分の体験を基準にして判断してはならない」と叱責されることになったのである。


しかし、これは奇妙なことではないだろうか。クライアントの悩みを聴いて何かを感じるのは、可哀想、悲しい、苦しい、辛いといった感情を抱く自分自身の内的基準があるからだろう。それはカウンセラー自身のさまざまな人生経験が基になっているはずである。それがなくてクライアントの悩みを理解し、共感することなどできるとは思えない。それは感情のないロボットに、人間の悩みを理解しろと言っているようなものだと思われる。もちろん、ロボットがそういうカウンセリングをする日も遠くはないかもしれないが、そのロボットの人工知能には、多くの人間のさまざまな人生経験や感情が、原初的な記憶としてインプットされているに違いない。人工知能が判断基準を記憶していなければ、人間の感情や心理を理解することは不可能だろう。


ところが、この日のカウンセリング実習では、人生経験はすべて忘れろ、ロボットになってクライアントの悩みに共感しろ、助言をしてはならないと言われたようなものである。それでもなお、私は平静を装っていたが、本当は「貴方たちは馬鹿ですか?」と言い出す寸前だった。しかも、悪いことは重なるもので、この後さらに、ダメ押しのようなカウンセリング実習が続いたのである。


本当は、よせば良かったのだが、残り時間の関係で、あと1回はカウンセリング実習ができるということになり、講師がクライアント役とカウンセラー役の立候補者を募った。しかし、そうそう悩みがあるわけでもないし、初対面の講師の前でカウンセリング実習をするのは気が重いから、なかなか立候補者が出ない。仕方がないから、私がクライアント役に立候補した。我ながら底無しの馬鹿だと思うが、私に続いてカウンセラー役も立候補者が出て、その日最後のカウンセリング実習が始まった。そして、このときのカウンセリング実習が、私にとって致命的な結果をもたらすことになったのである。


(続く)


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産業カウンセラー養成講座受講記(6)

確認したわけではないが、日本で職場のメンタルヘルスケアが叫ばれるようになったのは比較的最近のことで、世紀の変わり目前後のことではないかと思われる。そもそも、私が若い頃には、パワハラなどという言葉はなく、上司が部下をいびるのは当然の権利と思われていたフシがあった。私も、新卒で入行した銀行で、これでもかというほど徹底的にいびられたものである。その上司は、1万人以上の行員がいる銀行で、ワースト2に数えられるほど有名ないびり屋だったが、特に懲戒処分を受けることもなかった。そういう時代だったのである。もちろん、過労死という言葉もなく(過労死という言葉が広く知られるようになったのは、昭和時代の末期、富士銀行兜町支店の女性行員が働き過ぎで死んだ事件からではないかと思われる)、「日本人はワーカホリック」と言われることを誇りにしていたような人が多かったと思われる。当時と比較すれば、現在は良い時代になったと言えそうだが、建前と本音が異なるのは日本人の常であり、パワハラ文化は依然として存在していると言うべきだろう。


いささか話が脇道に逸れたが、(2)で触れたとおり、産業カウンセラーの試験には筆記試験と実技試験がある。当然のことながら、養成講座でも両方の試験に対応するための講義が行われる。中心になるのは実技の方で、カウンセリング実習を延々と繰り返すことになるが、この実習は容易に想像がつくだろう。受講生同士がクライアントとカウンセラーになって、カウンセリングの実戦訓練をするわけである。この時、担当する講師の資質、能力、人格、見識などが、受講生の運不運に大きく作用することも容易に想像がつくと思う。私は、養成講座を受講する過程で、本物のカウンセリングを受けたりする羽目になったが、それも運不運が作用した結果なのである。


それは、養成講座も佳境を過ぎ、終盤に差し掛かったある日のことだった。その日は、初対面の講師の下で、初対面の受講生たちとカウンセリング実習を受けることになっていた。所変われば品変わるというが、講師やメンバーが代わると、カウンセリングの態様もがらりと変わる場合がある。本来、このような差異は最低限に抑えられるべきもののはずだが、実態は必ずしもそうではないようで、私がそれまでの講義でほとんど聴いたことがなかったテクニカルタームを連発する受講生たちがいたりするのである。


で、その日、私は最初にクライアント役を務めた。言うまでもなく、カウンセラー役に向かって悩みの相談をするわけだが、相手は親子ほど年齢が違う若い女性である。ゆっくり話したり、適当に間を取ったりして、カウンセラー役がやりやすいようにしていたのだが、妙な違和感があった。私は、とにもかくにも悩みについて相談しているのだが、カウンセラー役の女性は、なぜかヘラヘラと薄笑いを浮かべてばかりいる。人の不幸は蜜の味がするというのか、それとも「クライアントの悩みを聞いたらヘラヘラ笑いなさい」と教えられていたのだろうか。私には、その異様な態度の意味を理解することはできず、ただただ不愉快な思いを抑えるのに必死だった。

 また、少し話に熱が入り、思わず身振り手振りを加えてしまったとき、カウンセラー役の女性も、私の真似をして身振り手振りをしたのである。いくら相手が若い女性でも、さすがにこの時は、「馬鹿にしてるのか? それとも喧嘩を売っているのか?」と怒鳴りたくなるほど不愉快になった。岩崎
宏美さんや野口五郎さんが、コロッケさんに物真似をされて激怒したという話があるが、お二人の気持ちがよく分かった。もちろん、私の場合は、面白おかしくデフォルメされたわけではないが、自分のつまらない癖や身振りを真似されるのは、実に不愉快極まりないものである。しかも、悩み事の相談中のことなのだから尚更である。とはいえ、実習中なのだから仕方がないと納得し、素知らぬ顔でクライアント役を続けたのである。


ところが、話はそれほど簡単ではなく、カウンセリングが終わった後の反省・講評の時に、愕然とすることになった。それは、私の物真似をしたことで、カウンセラー役の女性が、講師や他の受講生に大層褒められたからである。私には、これはもはや狂気の世界としか思えなかった。私が本物のカウンセリングを受けていたのなら、笑われた時に「何かおかしいですか?」と迫ったことだろうし、物真似をされた時は、怒気を込めて「馬鹿にしてるのか?」と威嚇しことだろう。ところが、彼女に悪気があったわけではなく、彼女が教えられたカウンセリングでは、それは正しい態度だったわけである。私は、もはや反論する気もなかった。ただ、私がいるべき場所ではないと、改めて感じることになったのである。
(続く)


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産業カウンセラー養成講座受講記(5)

ところで、クライアントが「どうしたらよいでしょうか?教えてください」と質問してきたとき、産業カウンセラーが、「それを考えるのは貴方自身です」としか答えない理由はお分かりだろうか。「何となく分かる」という読者の方が多いかもしれないが、この場合、どのような理屈を捏ねるかというと、主な理由としては、次の二つが挙げられるようである。第一の理由は、クライアントに助言をすると、そのクライアントは、何事にも助言を求める人になってしまうということである。第二の理由は、クライアントが助言に従った結果、不測の損害が発生したら、その損害の賠償を請求される危険性があるということである。しかし、どう考えても、この二つの理由には説得力がない。


ところが、産業カウンセラーやカウンセラーを目指す人たちは、上記のような助言をしない理由を、至極もっともな理由として納得するらしい。(3)の最後に、カウンセラーには、人生経験に乏しく、教条主義的な思考と、形式的な対応しかできない人の方が相応しいと書いたが、私も今はカウンセラーを目指す人のはしくれである。しかし、こういう理由付けに納得できるということが、私には理解できない。


では、私のように、教条主義的な思考と形式的な対応ができない人間は、上記の助言をしない理由についてどう考えるかと言えば、次のように考えることになる。


第一の、クライアントに助言をすると、そのクライアントは、何事にも助言を求める人になってしまうという理由だが、有り体に言って、これは爆笑モノである。果たして、そのような人がどれだけ実在するのだろうか。絶対にいないとまでは言わないが、人は、多かれ少なかれ誰かの助言を受けながら成長し、人生を歩き続けるものである。私にしても、友人や先輩に助言を求めたことはあるが、何事にも助言を求める人にはなっていないと断言できる。また、私も、今までに多くの人にさまざまな助言をしたが、その中の誰かが、何事にも助言を求める人になってしまったという話は寡聞にして知らない。仮に、100人に1人、1000人に1人、そういう人がいたとしたら、おそらくは常人とは異なる過度の依存症の人であり、カウンセリングの対象ではなく、精神医療の対象ではないかと思われる。稀有な例外的人間像を基準にして、すべてのクライアントが依存症になると決めつけるのはナンセンスだろう。もし、そういうクライアントに巡り会ったら、そういう性格を見極めて、その人に合った対応をすれば良いだけのことである。


次に、第二の理由だが、常識的に考えて、これは噴飯モノではないだろうか。カウンセリングをボランティアで行うのなら、責任は一切負わないという主張もあり得るだろう。しかし、通常は、カウンセリングは対価の支払いを受けるはずである。対価の支払いを受けるということは、自分の行為に責任が生じるということを意味する。弁護士や税理士が、法律相談や税務相談で間違った助言をした結果、クライアントに何らかの損害が発生すれば、損害賠償責任を負うことはあり得る。医者が診断ミスをした場合も同様であり、会社経営者が判断ミスで会社に莫大な損害を与えた場合も同様だろう。にもかかわらず、産業カウンセラーは、「クライアントに対して一切の責任を負いません。責任を負わされる危険性があるから助言はしません。話を聴くだけで相談料をいただきます」というのは、常識を逸脱した自分勝手な主張ではないだろうか。このようなカウンセラーに話を聴いてもらうために、相談料の支払いを続けるクライアントがいるとしたら、驚愕に値すると言えそうである。


で、上記のように考えると、助言をしない真の理由は、第二の理由に行き着くのではないかと思われるが、これは余りにも不条理ではないだろうか。こうした産業カウンセラーに対する疑問が、いよいよ私をより深刻な迷宮へと迷い込ませていったのである。


(続く)


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産業カウンセラー養成講座受講記(4)

ここで、最初に書いた産業カウンセラーの定義を振り返ってみると、人事労務用語辞典の解説では、「産業カウンセラーは、特に仕事について、問題を抱えて困っている人の話に耳を傾け、助言を与える専門家のことです。企業などで人間関係やストレスなどに悩む従業員の心のケアを専門的に行います」であり、産業カウンセラー協会によると、「産業カウンセラーは働く人々を支援するカウンセラーです。心理学的手法を用いて、働く人たちが抱える問題を自らの力で解決できるように援助することを主な業務としています」となっていた。そして、私は、「一読すると同じように感じるかもしれないが、実は、上記の二つの用語解説には、天と地ほどの開きがあるのである」と書いた。その意味は、次のとおりである。


まず、人事労務用語辞典の解説では、「問題を抱えて困っている人の話に耳を傾け、助言を与える専門家」となっており、明確に「助言を与える」となっている。ところが、産業カウンセラー協会の解説では、「問題を自らの力で解決できるように援助する」となっており、「援助」とは何かについては触れていないのである。普通に読めば、「カウンセリングなのだから、それは助言することだろう」という理解になるに違いない。おそらく、ほとんどの人がそう考えるのではないだろうか。つまり、両者の定義は同じだということになる。しかし、そこが曲者なのである。


実は、この「援助」に助言は含まれないのである。読者の方々は意外に思われるだろうが、産業カウンセラーは、クライアントに対して助言はしないのである。というより、助言をしてはいけないと徹底的に教え込まれる。では、助言をしないでどのような援助をするのかと言えば、クライアントの話を聴く(「傾聴」という)ことだということになる。話を聴くことが援助なのであり、話を聴いても、助言をすることはしないのである。私が最初に迷い込んだのは、この助言をしてはならないという迷宮だった。


「そんな馬鹿な!」という声が聞こえて来そうだが(産業カウンセラー協会のホームページをご覧いただきたい)、それが私の言う形式的な対応であり、私にとっては全く意味不明の価値観なのである。ちなみに、(1)で述べたが、私がカウンセリングを受けたカウンセラーは、私にいろいろな助言をしてくれた。その助言が適切だと思ったからこそ、私はその人の話に耳を傾け、その人の助言を参考にして、産業カウンセラー養成講座の受講を決めたのである。その人が、私の話を聴くだけで、一切の助言をしてくれなかったら、私は落胆した顔をして、あるいは捨て台詞の一つも吐いて、面談室を出て行ったかもしれない。この点は容易に想像がつくのではないだろうか。


有り体に言って、日本人は、目に見えないものに対価を支払うことを嫌う傾向があるようである。物を買ったり、何かを作ってもらったりすれば対価を支払うが、相談に対して対価を支払うということが理解できない人が少なくない。特に年配の人たちは、頭脳労働よりも肉体労働を尊重すると言えるかもしれない。アメリカのようにはカウンセリングが普及しない理由の一つは、そういう国民性にあるのではないだろうか。たとえば法律相談がそうである。弁護士に相談して、専門知識や訴訟経験に基づく適切な助言を得られれば、相談料を支払うのは当然で、別に惜しくはないと思うのだが、「なぜ話を聴いただけで金を払わなければならないのだ」などと不満を言う人も少なくないようである。私の親戚にもそういう人がいた。適切な助言を受けられてもそう思うのだから、ただ話を聴くだけで、何も助言をしてくれないカウンセラーが高額な相談料を請求したら、クライアントはどう思うだろうか。「助言を求めても答えてくれなかったくせに、相談料を払えとは何事か!」と、怒髪天を衝く剣幕で怒る人がいても不思議ではない。カウンセリングが10回、20回と続いていたら尚更のことである。


もっとも、そこまで相談料の支払いを続けるクライアントが、どれほどいるかは甚だ疑問である。若い頃に産業カウンセラーとしてカウンセリングを行っていたという大学教授の話を聴いたが、クライアントは途中で来なくなることが多かったそうだ。これは当然のことだろうと思われる。クライアントは、話を聴くだけで何も助言をせずに相談料を取るのは、俗に言う、やらずぶったくりであると思ったのではないだろうか。私がクライアントでも、すぐに行かなくなる。それが人間の心理というものだろう。しかし、産業カウンセラーの世界では、クライアントの心理を慮る必要はないらしい。というより、多くの場合、クライアントの心理を読めるだけの見識も人生経験もないのではないだろうか。


では、クライアントが「どうしたらよいでしょうか?教えてください」と言って、何度も真剣に質問してきたら、産業カウンセラーは何と答えるだろうか。答は、「それを考えるのは貴方自身です」に尽きるのである。「よくもまあ、クライアントに蹴飛ばされないものだ」と思うのは、私だけだろうか。


(続く)

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産業カウンセラー養成講座受講記(3)

そういうわけで、ろくに調べもしないで、産業カウンセラー養成講座に申し込んでしまったのだが、いざ養成講座が開講すると、何よりも受講生の多さに驚かされた。しかも、ようやく20歳を超えたばかりではないかと思うようなお嬢さんもいて、なにやら急に、場違いなところに迷い込んだような嫌な予感がした。そもそも「問題を抱えて困っている人の話に耳を傾け、助言を与える専門家(人事労務用語辞典の解説)」が産業カウンセラーなら、最低でも40歳は超えている方が良いのではないかと思っていたからである。無論、年齢と能力は必ずしも比例しないが、たとえば、7ヵ月で速成栽培された20歳のカウンセラーが、60歳のクライアントの人生相談を受けるという図は、私の常識では考えられないことであり、他人の相談を受けるということは、もっと重みがあること、大きな責任があることだと思っていたのである。もっとも、仄聞するところでは、産業カウンセラー協会では、カウンセリングはカウンセリングであって、人生相談ではないと言っているらしい。しかし、その意味は不明である。


なお、知人の弁護士から聴いた話だが、地方都市で20代の弁護士が法律事務所を開業しても、クライアントは寄り付かないそうである。この点、都会では年齢に対する偏見は少ないそうだが、それでも全くないということはないだろう。ちなみに、私がカウンセリングを受けた産業カウンセラーは、私よりも19歳年上の女性だった。もし、そのカウンセラーが、私よりも19歳年下だったら、私は、ろくに相談などしないで、さっさと帰ってしまったことだろう。


この点は、「もし、クライアントの相談内容が、その人の妻や子供のことだったら」と考えてみると分かりやすいだろう。未婚で子供もいない20歳のカウンセラー(普通は、一身上のことはそこまで分からないだろうが)に、「私が産業カウンセラーです」と言われても、そのカウンセラーに妻や子供のことを相談するだろうか。私なら絶対にしない。妻や子供がいない人が、妻や子供に関する悩みを理解し、適切な助言ができるとは思えないからである。同様に、パワハラやセクハラを経験したことがなく、職場ほど楽しいところはないと思っている若いカウンセラーに、パワハラやセクハラについて相談するのは無意味に近いに違いない。


有り体に言って、私は人生経験というものを、それほど軽く考えてはいない。20歳のカウンセラーと70歳のカウンセラーがいる場合、どちらに相談するかと問われれば、迷うことなく70歳のカウンセラーを選ぶ。カウンセリングとはそういうものだと思っていたし、今もそう思っている。私に助言してくれた19歳年上の女性カウンセラーも、同じ考えで私にカウンセラーになることを勧めてくれたのだと思う。しかし、産業カウンセラー養成講座が始まると、そういう考えは完全に否定されていく。産業カウンセラーには、人生経験に乏しく、教条主義的な思考と、形式的な対応しかできない人の方が相応しいとでもいうような、私にとっては全く意味不明の価値観に翻弄されていくことになったのである。実に奇妙な話だが、カウンセラーの世界では、波乱万丈の人生経験や、人の心の内を見透かすような洞察力や、論理的思考力や、バランス感覚は、すべて不要のものであるかのように否定されのである。


(続く)

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産業カウンセラー養成講座受講記(2)

さて、カウンセリングが長引き、退社の時刻を過ぎてしまったので、その日は帰社することなく自宅に直接帰った。帰宅するとすぐに、産業カウンセラーやハラスメント防止コンサルタントについて調べたが、産業カウンセラーの資格があると、ハラスメント防止コンサルタントの受験資格を得られるらしいので、先に産業カウンセラーを取得することにした。とは言うものの、話はそれほど簡単ではなかった。


産業カウンセラー資格を取得するには、約7ヵ月にわたって、毎週土曜日に養成講座に通わなければならない。その間、毎回のように在宅の課題が出される。つまり宿題である。所定の日数の講座を受講し、すべての課題で合格点を取り、無事に講座を終了すると受験資格が得られる。その上で筆記試験と実技試験に合格すれば、ようやく資格を取得できるというわけである。講座に通う期間が長いだけに、学費も馬鹿にならない。大した資格でもないと思うが(産業カウンセラーは民間資格であり、現在は、キャリアコンサルタントという国家資格がある)、それにしては大変な負担を強いられる。途端に馬鹿馬鹿しくなり、止めようかと思った。


実は、私は、なんやかやと言っては、いろいろな資格試験や検定を受けてきた。最初は銀行員時代に簿記の検定を受けた。簿記学校に行く時間も暇もなかったから独学であり、かかった費用はテキスト代と受験料だけである。その後、証券会社に転職したので、証券外務員Ⅱ種・Ⅰ種及び内部管理責任者の資格を取得したが、費用はすべて会社の負担だった。次に、かつては人気資格だった宅地建物取引主任者を取得したが、むろん受験予備校などには通っていない。辛口の友人と酒を飲んでいるときに、1週間の受験勉強で合格できるかどうかの賭けをしたことが受験のきっかけだった。その友人が、「1週間で合格しなければ、法務が専門だとは言わせない」と言うので、「やってやろうじゃないか」と受けて立ったのである。結果、忙しくてなかなか勉強時間が取れなかったが、4日間の勉強で合格した。行政書士も取得したが、このときも半ば遊びだった。部下が行政書士試験を受験していたのだが、何度受けても受からないので受験を止めると言い出した。それで受験用テキストが不要になったから、私にくれると言うのである。行政書士試験に興味はなかったが、折角だからテキストを貰い、ついでに2ヵ月ほど勉強して合格した。個人情報保護士を取得したときも同じようなものだった。変わり種としては、普通自動車2種免許(ハイヤー・タクシーのドライバーができる免許)も持っている。漢字検定も受けたが、同じ日の午前に2級、午後に準1級を受験して両方とも合格した。これもただの遊びである。要するに、資格試験のために、大枚はたいて7ヵ月も講座を受講するなどという贅沢な真似は、かつて経験したことがなかったのである。


有り体に言えば、7ヵ月も拘束されることに対する拒否反応ではなく(それもあったが)、養成講座に通うことが身分不相応に思えて躊躇したということになる。なにしろ半年分の小遣いが一瞬で消えてしまうのだから、否が応でも考えざるを得ない。しかし、結局は、老い先短い年寄りの最後の贅沢と割り切って、気が変わらないうちにとばかりに申し込んでしまった。しかし、産業カウンセラーは、私が想像していたそれとは全く異なるものであり、やがて、私の職務経験も、人生経験も、価値観も、思考も、バランス感覚も、私が認識する常識も、すべてが否定されるような事態に追いやられていくことになるのだが、この時は、そんな事態は夢想だにしなかったのである。
(続く)

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産業カウンセラー養成講座受講記(1)

職場のメンタルヘルス対策が叫ばれるようになり、インターネットを閲覧していると、産業カウンセラーに関する広告に出会うようになった。資格取得のための講座の広告である。


そこで、産業カウンセラーとは一体なんぞやということが、試みにインターネットで調べてみると、人事労務用語辞典の解説では、「産業カウンセラーは、特に仕事について、問題を抱えて困っている人の話に耳を傾け、助言を与える専門家のことです。企業などで人間関係やストレスなどに悩む従業員の心のケアを専門的に行います」ということになり、産業カウンセラー協会によると、「産業カウンセラーは働く人々を支援するカウンセラーです。心理学的手法を用いて、働く人たちが抱える問題を自らの力で解決できるように援助することを主な業務としています」ということになる。一読すると同じように感じるかもしれないが、実は、上記の二つの用語解説には、天と地ほどの開きがあるのである。


なぜ、こんなことを書き始めたかというと、実は、およそカウンセリングなどには縁がないはずの私が、職場でパワハラの嵐に晒されるようになったことが原因である。同僚部下は、足並み揃えて次々に退職してしまい、仲間内でったのは私一人という有様になったので、話し相手も無くなり(退職した同僚や部下たちと飲みに行くことはあるが)、遂に、カウンセリングを受けることになったのだが、それが事の始まりである。


ご多分に漏れず、私が勤務する会社でもストレスチェックを行うことになり、結果が悪いと、会社が契約しているカウンセラー会社でカウンセリングを受けることになる。建前上は、結果が悪い従業員はいないはずなのだが、もちろん実態は違う。1300人ほどの従業員のうち、1年に400人が入れ替わるほど高離職率を誇る会社なのである。しかも、本社では鬱病で退職に追い込まれる管理職が後を絶たない。さしずめ超が個は付くブラック企業であり、密かにカウンセリングを受けている従業員は多いのである。


で、私の場合、最初はメールでそれとなく相談事をぶつけてみた。しかし、返信されてきたメールは、「お悩みなんですね」くらいのものであり、「だからそう言ってるだろう!」と怒鳴りつけたくなるようなものである。当然、余計に落ち込むだけなので、馬鹿馬鹿しいからそれで終わりにたが、執拗なパワハラ・嫌がらせ・虐待・差別は続く。したがって、会社にいること自体が苦痛だから、少しでも会社から離れるためにカウンセリングを受けに行くことにしたのである。

  その結果、事態はおかしな方向に舵を切り始めた。1時間の予定で予約をしていたのだが(それが普通で、カウンセリングは10回、15回と続くものらしい)、いつ終わるとも知れないままカウンセリングは続き、3時間が過ぎた時、予約係の人が面談室を訪れ、次の予約が入っていることを告げた。話は終わっていなかったのだが、1時間の予約で3時間も話し込んでいては何も
文句は言えない。結局、中途半端まま帰宅したが、このときのカウンセリングで、私にはカウンセラーのような仕事または何かの講師のような仕事が向いているという話が出た。事実、私は長年にわたって法務専門職としてサラリーマンを続けてきたから、社内の法律相談から、個人的な身の上相談まで受けていた。また社内の法務実務講習会の講師なども務めて人気講師になっていたのである


私の人生は、山あり谷ありの波乱万丈の人生で、山の時代よりも谷の時代の方が遥かに長かったから、その分だけ人生経験は豊富だとも言える。カウンセラーや講師に向いているという助言正鵠を射たものに思えた。しかし、それが奈落の底へ墜ちて行く第一歩だった。やがて、半年後には再びカウンセリングを受けることになるのである。

(続く)


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終戦記念日の憂鬱

 昨日は8月15日で、つまりは終戦記念日だった。日本が大東亜戦争に敗北した日であり、敗戦を記念するというのは奇妙なことである。世界各国に「戦勝記念日」や「独立記念日」はあるだろうが、「敗戦記念日」というのは寡聞にして知らない。このあたりにも、戦後日本人の奴隷根性が見えているような気がする。このようなことを書くと、すかさず、「敗戦を記念したのではなく、終戦を記念したのだ」という反論が出るだろうが、所詮は言葉のすり替えであり、詭弁にすぎないと言うべきだろう。戦後70年を経てなお、日本が連合軍(国連)から敵国とされ、不当に国民の血税を搾り取られながら、謂れのない汚名まで着せられていることが、敗戦国の現実を如実に現わしていると言わざるを得ない。


 その象徴的な出来事が、天皇陛下や首相が靖国神社を参拝できないという事実である。もし、大東亜戦争が終結し、日本が独立国として主権を回復しているのなら、誰が靖国神社を参拝しようが、諸外国から因縁をつけられる筋合いではない。ところが、事実上、アメリカ・支那・韓国の植民地である日本は、宗主国の意向に反した場合、神社の参拝すらできないほど惨めで情けない国に成り下がっているのである。そういう国に成り下がったことを嬉々として記念したがっているのは、NHKや朝日新聞をはじめとする反日メディアや、日弁連や日教組のような反日組織が中心である。真の日本国民なら、終戦記念日など廃止して、独立記念日を制定すべきであると主張するのではないだろうか。少なくとも、私はそう考えている。


 で、毎年のことだが、植民地国家としての実態を証明する出来事が今年も起こった。言うまでもなく、安倍首相の靖国神社参拝見送りである。支那・韓国・朝日新聞・毎日新聞などの内政干渉(朝日や毎日は、北京や青瓦台の機関誌に等しい)により断念したものであり、独立国の首相の行動ではない。一方、韓国では、与党である
セヌリ党の議員をはじめとする超党派の国会議員団が、日本の朝鮮半島統治の終結を記念する「光復節」の昨日、島根県の竹島に上陸したという。日本政府は韓国に抗議したそうだが、韓国の議員は、「韓国の領土である独島に韓国の国会議員が訪問することに対し、『行くな』というのは無礼だ。光復節に日本は反省の姿勢を示すべきだ」とう応じたという。日本政府の抗議はゴマメの歯ぎしりであり、日本と韓国の立場の違い、すなわち宗主国と植民地の違いを現わすものだと言える。このような戦後日本の現実を思い知らされるのが終戦記念日なのである。

 しかし、世界最悪の奴隷国家であり、世界一不潔な国と言われていた李氏朝鮮に、近代文明を移植したのは日本である。ダムを建設して荒野を緑地に変え、禿山に植林し、病院を設立して朝鮮人の寿命を飛躍的に延ばした。学校を設立してハングルを普及させたのも日本であり、ソウル大学も日本が設立した。これらの事業は、すべて
本国の日本国民の血税で行われた。日本が併合しなければ、北朝鮮も韓国も、21世紀の世界地図には存在しなかったはずの国である。大東亜戦争時に日本だった韓国は、日本とともに連合軍と戦い、日本とともに敗戦国となった。にもかかわらず、日本に対する憎悪に凝り固まっていたマッカーサーの方針で戦勝国扱いされ、戦後は日本人の虐殺を繰り返し、土地その他の財産を略奪し、日本の特権階級に成り上がったのが在日であり、日本から搾り取った資金で先進国の仲間入りしたのが韓国である。日本が韓国の植民地に甘んじていなければならない理由は何一つないのである。

 そもそも、日本が韓国を侵略したから反省しろ、賠償しろという主張からして、恥を知らない韓国人ならではの主張である。日本の朝鮮半島併合は、アメリカから押し付けられたものであり(アメリカの手には負えなかった)、国際社会も認めた併合
だった。また、金玉均をはじめとする青年貴族たちや朝鮮国民の支持を得た併合だった。したがって、日本が韓国に非難されるいわれは全くないのである。その証拠に、韓国は、日本人漁民を虐殺して日本から奪い取った竹島領有を、現在でも正当なものだと主張している。韓国人の主張に従えば、領土は奪った者勝ちなのである。したがって、韓国国民の合意に基づいた日本の日韓併合を韓国が非難するのは天に唾するものである。

 しかし、日本の政治家は何も反論できない。本来なら、韓国が竹島を侵略したから反省しろ、賠償しろと主張するべきなのに、ひたすら韓国の顔色を窺ってビクビク・オドオドするだけである。韓国に与して歴史を捏造し、偉大な先人に謂れのない汚名を着せることさえ辞さない浅ましい政治家や外務官僚たちがそこにいる。日本国民は、終戦記念日にこそ、大東亜戦争を遂行した先人たちに敬意を表するべきである。今では、憲法9条があればミサイルは飛んでこないという主張も、敵国に与するマスメディアや鳥越俊太郎のような反日工作員の大法螺だということ
理解できたはずである。自分たちの頭上にミサイルが撃ち込まれる前に、世界の現実に目を向けるべきであり、それができないのなら21世紀の世界に生き残る資格がないと言わざるを得ない。

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北朝鮮のミサイルが秋田沖に-憲法9条はどこへ行った

 産経新聞によると、国連安全保障理事会は、北朝鮮が中距離弾道ミサイル「ノドン」とみられるミサイルを発射したことに対応して、非公開の緊急会合を開催したそうだ。発射された2発のミサイルのうち、1発の弾頭部分が日本の排他的経済水域(EEZ)内に落下した点を重要視したのだという。別所浩郎国連大使は記者団に対して、「全く受け入れられない。われわれは強く非難する」と述べ、米国のサマンサ・パワー国連大使は、「国際社会の平和と安全にとって重大な脅威であり、威嚇する能力を高める試みだ」と非難したそうである。


 ちなみに、秋田県男鹿半島の西250キロの日本海に落下したことから、秋田県では船舶や漁業関係者らが対応に追われるとともに、北朝鮮の暴挙に憤りの声が上がっているという。秋田県の佐竹知事は、「秋田沖にミサイルを撃ったことに怒りを覚える。戦前なら応戦する事態だ」と反発し、「陸地を狙って届かなかった可能性もある。不測の事態が起きかねない緊迫した状況だった。政府はきちんと対処してほしい」と述べたそうである。


もっとも、一朝有事の際は、ミサイルが雨あられと降り注ぐだろうから、敵のミサイル基地を破壊する以外に防ぐ方法はない。つまり、今の日本の法律では対処のしようがないということである。北朝鮮が日本に向けて設置している200基のミサイルのうち、その半分の迎撃に成功しても、残りのミサイルで日本は壊滅することになる。


 で、毎日新聞までもが、「政府関係者が、もし日本の領土まで飛んできても、迎撃できなかっただろうと述べている」と報じているのである。しかし、これらの報道は、どうにも釈然としない。毎日新聞や朝日新聞は、なぜ「日本には憲法9条があるから何の心配もない」と報道しないのだろうか。「平和を愛する近隣諸国が、日本に向けてミサイルを発射することはあり得ない。これは誤射である」という報道がないのはなぜなのか、実に奇怪極まりないことである。毎日新聞や朝日新聞はもちろん、民進党や公明党、NHKやテレビ朝日・TBS、シールズで暴れていた学生たちや9条教の市民団体は、一体どこへ行ってしまったのだろうか。


 彼らは、今こそ国会前で過激デモをして、「あれは単なる誤射だ。北朝鮮を非難するな」と絶叫すべきだろう。このまま北朝鮮がミサイルの誤射を繰り返し、日本に人的被害が発生しようものなら、彼らの言う戦争法に賛成する日本国民が一気に増加することになるだろう。さらに、憲法9条改正論議に拍車がかかることになるに違いない


何はともあれ、狂信的な9条教信者たちは、直ちに国連安保理に対して北朝鮮に対する非難を撤回させ、返す刀で北朝鮮に出向き、ミサイル部隊の将兵たちと酒を酌み交わしながら、これ以上誤射をしないように話し合わなければならない。彼らにはその義務があるはずである。もし、「それはできない」と寝ぼけたことを言うのなら、今後は、空想的平和主義を唱えて日本国民を洗脳することは、決して許されるべきではない。そして、今までさんざん国民を欺き、愚弄し、支那や北朝鮮や韓国のために尽力してきた大罪を謝罪すべきである。その後は、支那でも北朝鮮でも韓国でも、好きな国へ行って帰化すればよい。お互いにせいせいするというものだろう。日本も少しはまともな国になれる。


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