ちなみに、最後のカウンセリング実習でカウンセラー役に立候補したのは、私がカウンセラー役を務めたときのクライアント役だった。立場を入れ替えてカウンセリング実習を行うことになったわけである。
で、私にはいくらでも話題があったので、どんな問題を悩み事にしてもよかったのだが、先に、そのカウンセラー役が家族のことを相談事にしたので、私も家族の話をすることにした。既に終わったカウンセリングだったが、私の相談の中で、カウンセラー役が話してくれた悩み事について、参考になるような話ができるかもしれないという考えもあった。しかし、それが大きな間違いで、私は、養成講座を中途で止める決心をすることになるのである。
さて、私が相談したのは母のことだった。母は若い頃から病弱で、長生きできるとは思えなかったが、既に94歳になっていた。さまざまな病気や怪我を抱え、89歳のときには胃癌の手術をしていたが、大正人らしい毅然とした立ち居振る舞いは健在だった。1年ほど前までは書道展に作品を出展し、いつも何かの賞を貰っていたものだった。しかし、わずか1~2ヵ月のうちに、急速に認知症と思しき様子を見せ始めていたのである。
実は、母は、年寄りしかいない老人ホームには入居したくない、植物人間や認知症になってまで生きていたくはないと、口癖のように言っていた。とはいえ、作家の曽野綾子さんのように、高齢者は適当な時期に死ぬ義務があるとまでは考えていなかったようであり、その時のための準備をしていた様子はなかった。そもそも、曽野綾子さんは死ぬ義務を果たせるのかもしれないが、普通の人は、そう容易く細川ガラシャや乃木静子のようにはなれないと思われる。また、完全に呆けてしまったり、植物人間になってしまったりした場合は、自分で自分の始末をつけることはできないことになる。そこで、私は、安楽死や尊厳死を認めるべきであり、同意殺人や自殺幇助は犯罪とすべきではないと考えている。しかし、本音を隠して綺麗事を並べることが常の日本社会では、この手の主張をすると袋叩きにされる。曽野綾子さんの場合もそうだった(「高齢者は適当な時に死ぬ義務がある」(http://blog.livedoor.jp/patriotism_nippon/archives/4609967.html))。
とはいえ、所詮は対岸の火事とばかりに批判する人は、それで善人になったつもりになって満足だろうが、現実には、仕事をしていては介護ができないし、介護をしていては仕事ができずに収入を絶たれるから、生活できなくなるという人は巷に溢れている。その結果、家族を殺して刑務所に叩き込まれたり、一家心中したりする人が後を絶たないのが日本の現実であり、そういう人たちにとって、介護は対岸の火事ではなく、地獄の業火なのである。
そこで、私の話に戻るが、私にしても、母が認知症になった場合は、母を殺すか心中するかの選択を迫られることになりかねない。それならば、いっそ本人が望んでいたように、完全に呆ける前に死んでもらいたいという考えが頭を擡げることにもなる。しかし、それは余りにも哀しい現実であり、考えたくはないことである。インターネットで、「友人に電話で『母に死んでもらいたい』と泣きながら話をした」という人の記事を読んだことがあるが、(「介護ができない奴は心中しろ」が政府の方針か?(http://blog.livedoor.jp/patriotism_nippon/archives/4652417.html))、私がカウンセリング実習で話そうとしたのは、「母に死んでもらいたい」という悩みではない。今の日本にはそういう人が溢れているのだから、国はしかるべき対策(安楽死や尊厳死を認める、国が介護の責任を負うなどである)を講じるべきだというだけのことである。したがって、カウンセラーは「そのとおりですね」とか「私もそう思います」と言えばそれで済むことで、簡単なカウンセリングのはずだった。ところが、そうはならなかったのである。
(続く)
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