死刑反対派の千葉法相が死刑を執行したこともあって、またぞろ死刑反対論者が騒いでいるようです。しかし、千葉法相が考えを改めたのなら、それはそれで一つの識見だと思いますが、どうもそうではないようです。WiLL10月号に掲載されている西村眞悟前衆議院議員の「歴史を捏造した『菅談話』」によると、「菅内閣の千葉法務大臣は、死刑には反対だが死刑を見ておく必要があるという理由で、二人の死刑執行を命じたその上でその死刑を見学した人物である。二人の死刑囚は、罪を償うためではなくこの者が見学するために死刑を執行されたのだ」そうです。なるほど、それは知りませんでした。
しかし、死刑は判決が確定した日から6ヵ月以内に執行しなければならないわけですから(刑事訴訟法第475条)、法務大臣が率先して法を破り、死刑判決を事実上終身刑に変更してしまうのは、さらに好ましくないと思われます。口蹄疫事件のときは法律の規定があるの一点張りで家畜の殺処分を強要し、八ッ場ダムに至ってはマニフェストに書いてあるというだけで工事中止を強行した民主党政府ですから、刑事訴訟法なんぞ守る必要はないというのでは余りにも鳩山的・菅的と言うべきで(笑)、私としては死刑執行をことさらに非難するつもりはありません。民主党議員に節操がないことくらい、今では誰でも知っています。
それよりも、不可解なのは死刑廃止論者の主張です。出て来る主張はいつも決まっていますが、特に多いのは次の3つでしょうか。
(1) 加害者の人権を保護すべきだ。
(2) 死刑に犯罪抑止効果はない。
(3) 冤罪で死刑にした場合取り返しがつかない。
しかし、いずれもまったくと言ってよいくらい説得力がありませんし、あとは大体感情論ばかりです。
まず(1)の主張では、被害者の人権はまったく考慮されていません。他人に殺されるような弱者の人権など保護に値しない。殺人者のような強者の人権こそ保護すべきだと言いたいのでしょうか。実際の話、殺されてしまった人の人権はもはや保護のしようがないのですが、だからといって、死んだ人間はどうでもいい。殺人犯であろうが、生きている人間を保護しろというのは奇妙です。凶悪犯罪の反射的効果(と言うのも変ですが)として加害者の人権が保護されなくても当然だと考える人は多いでしょう。だから日本では死刑に賛成する人が多いのだと思います。(1)の主張を認めることは、究極的には「殺され損・殺し得」の社会を容認することにつながる可能性もあると思います。
(2)については根拠がありません。ネット上で見かける反対論者の書き込みの中にも、なぜ犯罪抑止効果がないと言えるのかについて書かれたものは見あたりません。死刑が廃止されていないのだから統計を取ることはできないわけで、そもそも根拠として挙げるには無理があります。しかも、一般人の感覚からすれば、「殺したい人間はいるが、自分が死刑になるのは嫌だから殺さない」という人は少なくないと考えるべきでしょう。(2)の主張をしている人は、「目指す相手を殺せるなら死刑になってもいい」という人なのでしょうが、たぶん今の日本では圧倒的な少数派だと思います。だから、戦後の日本では政治家の暗殺事件などは滅多に起きないのです。
(3)の冤罪問題は、やや説得力があるようにも思えます。しかし、やはりおかしい。冤罪の問題は死刑制度自体に内在する問題だとは思えません。むしろ、犯罪捜査と裁判制度の問題です。したがって、冤罪の可能性が1%でもあるのなら、死刑判決など下さなければよいだけのことです。実際のところ、(3)の主張をする人は、殺人犯には、理由の如何を問わず死刑判決が下されているように思わせようとする傾向が見られますが、現実には死刑判決など滅多に下されることはありません。また、これは裁判官の問題ですから、間違いが起こる可能性は0%ではありません。しかし、冤罪の可能性があっても敢えて死刑判決を下す裁判官が、下級審裁判所から最高裁判所まで揃っていると考えるのは、司法制度自体の否定にまでつながりかねません。確かに、私も裁判官には不見識な人間が多いとは思っていますが。
最後に具体例を挙げましょう。銀座中央通りを歩いていた総理大臣夫妻を、何百人という衆人環視の中で射殺した犯人がいたとします。多数の歩行者も巻き添えで犠牲になりました。警邏中の警察官も、後に裁判を担当することになる裁判官も、たまたま現場を目撃していました。犯人はもちろん現行犯で逮捕され、容疑を全て認めています。そのような場合でも、「冤罪の可能性があるから」死刑は赦されないというのはナンセンスの極みです。日本国民の多くが死刑制度に賛成しているのは、やはり合理的な理由があるのだと考えざるを得ないのです。
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